旅の始まり
連休より一足早く今年のフィンドホーン体験週間の皆々様と共に4月23日に出発。正確には、羽田で2人、ロンドンで3人、アバティーンで更に3人が合流し、私を含めて9名のグループが無事アバティーンで集合となった。航空券が自由手配の場合、少しずつメンバーがそれぞれの出発地点から揃って来る。
地方から参加する方や、その後に他の場所へ行く人、または次の週のプログラムを受ける人と様々なのでこの方だと自由度が高くなる利点がある。翌朝の朝食の時間に先にチェックインしていたご夫婦が加わり、旅の期待感と共にお話も盛り上がり、様々にシンクロしていることがわかったりご縁の不思議を感じる時間に。
電車でフォレスまで移動し、その中でもシェアリングは続行。自然にグループが出来上がっていった。
再会、そしてクルーニーへ
フォレスの駅に列車が入るとお馴染みのジュディスの顔が見え、もう一人のフォーカライザー長老クレイグ、そしていつも何かとお世話頂く邦江さんも。ここからは、フォンドホーンの大きな流れの中に入っていく時間。私の役目の重要な部分がここで遂行できほっとする瞬間。ここからはこちらの方々と一緒にグループをサポートできるのがやはりなんといっても心強い。
到着して手早く部屋にチェックイン、新鮮な野菜山盛のランチを済ませ、三分咲きの桜を眺めながらオリエンテーションはお日様の下で。館内の案内のあとは自由時間。徒歩圏内のフォレスの町を散策したり、裏のパワースポットに登ってみたり。
私自身は毎度のことながら戻ってきた!というより、ずっとここにいたような気分になるから不思議。『時間』というのはどこに存在するのかと思う。これはフィンドホーンに限らず、とても親しみを感じる土地や場を再訪する時に感じること。
もしかしたら、身体は離れていても、どこかでいつも繋がっているのかもしれない。 一度繋げたことがあるWi-Fiが繋がるような感じで、到着してその空気の中に身を置くと自動的に波長が合ってエネルギーの交換が始まるような、そんな感じ。
皆さんがクルーニーツアーをしている間、今週のプログラムの翻訳をしつつラウンジで待っていると、この午後に完了した体験週間の皆さんが、この一週間をリリースし明日からの私たちの一週間のために頭上のビーチツリールームをお掃除しているのが聴こえて来た。なんでわかるって、大抵、踊りながら掃除機かけてるから(笑)フィンドホーン的トランスフォーメーション。お掃除は変容のプロセスなのだ。一週間ごとに完了して、グループとエンジェルがリリースされる。そして、場をニュートラルに戻して、新しいエネルギーを迎え入れる。なので、いつも始まりの時に部屋に入ると清々しさに満ちている。これもまたこのコミュニティの循環の知恵。
フィンドホーンの週末、プログラムもゆっくりとスタート
週末の始まり、金曜日の夕食はセレブレーションディナーとなる。ちょっとしたごちそうとデザート、そしてみんな少しお洒落して夕食をグループごとにテーブルを囲んで戴く。一週間を完了したみなさんのエネルギーは軽やかで、顔も輝いている。来週の今頃は、私たちのグループのみなさんも同じような時を迎えるだろう。
土曜日には旅立つ人、そして新たな冒険を始める人が入れ替わる。この循環を40年以上も続けて来ているのだなと思うと、ここに居ること自体いつもいつも変化の波の中にいることなのだと改めて気づく。
ここで長期滞在しながらクルーニー全体の生活を支えている人たちの精神的な修養はやはりなかなか大変なものだなと思う。しかも、新しくやって来るのは多様に満ちた人たち。文化も年齢も宗教的な背景、そして精神的な状態も含めて正に「多様性」そのもの。中には生きづらさを抱えながらやって来る人も少なくない。
そういう人たちが一週間ごとに入れ替わりやってくる。そして、一緒に深くハートと向き合う作業をしながら一週間暮らす。それをホールドしてクルーニーの生活の呼吸を保ち、かつ自分自身の自己探求もずっと行うわけで、私の様に、短期間繰り返し訪れるだけの身にはわからないプロセスがそこにあるのだろうと思う。訪れるだけの者からみたらすべて上手く回り、流れができているのでそのことの凄さに気づかないのだけれど、ここフィンドホーンでの実践は実際はとてもタフなものなのだ。
我々のグループは土曜日の午前中のイントロダクションから始まった。一人一人、なぜフィンドホーンにやってきたのか。それぞれの人生の「今」を垣間みながら少しずつ旅が始まる。お互いが鏡になったり、サポートをし合ったりしながらどんな時間ができてくるのだろう。私は何度もこの場に居合わせるので、毎回新しい気持ちで「今」を分ち合う。思いがけず出て来たのは、「もう癒しの時間は終わり、新しい時間の始まりにしたい。」ということだった。まだ癒していたのねと呆れる自分も認めつつ、ちゃんと新しい方向に向かおうとしているのなら良しとした。
午後はサンクチュアリーに集合し、エンジェルメディテーション。一人一人のこの一週間をサポートするエンジェルとグループを繋ぐエンジェルを選ぶ。
私には「Kindness」がやってきた。早朝、一人でガーデンを散歩している時に、あまりにもきれいな声で鳴くブラックバードがすぐ近くに居て、思わず目が合い、つい「おはよう」と声をかけていた。どうしても鳥たちを直視できない「鳥恐怖症」の私にありえない行動で自分でも驚いたのだけど、「Kindness」カードに描かれているエンジェルの肩に鳥が。。。今朝の行動はすでにこのエンジェルと繋がっていたのかもしれない。この後も実は花や植物との関係でいくつものシンクロがあり、自然界とのコミュニケーションを助けてもらったようだった。
そして、今回のグループエンジェルはその「Communication」。いろんな意味、レベルでのコミュニケーション、それぞれにとって、そしてグループとしてこのエンジェルがどのように働くのか。流れの中で見えてくるだろう。私にとっては改めて自分とのコミュニケーションの時間になるのかなと湧いてきた。今回はもう一度、フィンドホーンのディーバ達と私自身の関わりを見直す時間になりそうだ。
森の中の結婚式
実はこの午後、マクベスで知られるコーダー城の森の中でコミュニティのメンバーの結婚式があるという。誰でも立ち会えるとのこと。人数が少ないグループの利点で、こういう時に小回りが効く。
十分に間に合う時間だったので、みんなでバスに乗り込んでいざコーダー城の森へ。雨が心配されていたにも関わらず晴天が広がり、森の中にある大きな木の下に森の妖精の様な新郎新婦が裸足で立ち、法的に資格を持つ無宗教のミニスターの女性が結婚の儀式を執り行っていた。(フィンドホーンはスコットランドで正式に認可されている冠婚葬祭を執り行える団体であり、コミュニティのメンバーにはそれを司る資格を持っている人が何人か居る。なので、まさにコミュニティウェディングなのだ。)
沢山の友人達が見守る中、きっと意味のある色とりどりのリボンで2人の手を結び、それぞれが相手に対して想いを伝え夫となること、妻となることを誓い合う。森の女王といわれるバーチツリー(樺の木)の採りたてシロップを銀の聖杯に入れて、本人達そして集まった人たちが回し飲みしていく。歌があり、ストーリーテリングがあり、そして最後はドライローズの花びらでウェディングシャワー。新芽がきらきらと輝く森の中は祝福に満たされた。週の始まりから祝福に満ちた時間となり、また早々にアウティングという特別なプランも加わって幸先の良い始まりとなった。
ところで、実は、我々の体験週間の終わりの金曜日にもユニバーサルホールでもう一組の結婚式があった。こちらはアラブ音楽と共にみんなでチェーンダンスをしたり。。。行くことが叶わなかったけれど、結婚式で始まり、結婚式で終える週というのもなかなか無いものだ。高齢化と言われているけれど、一方、フィンドホーンの新しいエネルギーを感じられた。森の結婚式にも子連れの参列者が何組もあり。若い夫婦と子供たち、これからまたこのコミュニティを創造していく人たちが確実に増えているのは素晴らしいこと、そして同時になんとなく安心したりして。
日曜日はセイクレッドダンスに始まり、午後はパークツアーに続いて、それぞれが月曜日からラブインアクションと呼ばれる作業に参加するそれぞれの部門を決める。今回はこれまた人数が少ないという利点で我らがクレイグの家(ウィスキー樽の廃材で建てられた手作りの「バレルハウス」)にてティータイムと合せて行った。ここまでが翌日から始まる「日常」の準備となる。
今でも奇跡は続くフィンドホーンのガーデン
長老クレイグが案内してくれるパークツアーは、これまでのパークの変容を実際創造してきた生き証人の話だけに説得力がある。彼はここが荒れ地だった時からフィンドホーンに住み、そしてここの農園とガーデンを育てて来た人の一人であり、フィンドホーンの奇蹟をずっと見て来た人。パーマカルチャーという言葉と彼の実践のどちらが先かわからないけれど、今ではパーマカルチャリストであり、若い人たちのエコビレッジ教育にも欠かせない人の一人。
彼が話してくれたことの中で印象的だったのは、世界各地にあるコミュニティやエコビレッジの中で何も無い荒れ地から始まったところが結果長く継続しているということだった。もちろん、そこに冒険心と未知なる体験、そして自然界の摂理にオープンで居られるハートが必要であるとは思うけれど。また、惜しみなく失敗例も話してくれた。その一つは、夢中で植林した木が今や大きくなり過ぎて、それを予想せずに建てた家が今は日当りが悪くなっちゃったとか、屋根に草が生えるちょっとデザインを凝った家はアイデアは良かったけれど、窓の位置を間違えてとても寒い家になってしまったとか。実験には失敗もつきものなのだ。これもまたちょっとフィンドホーンらしいなと思うところだったりして。
彼の家とガーデンは正にその遊び心に満ちたハートが生み出したアート。家はウィスキー樽の廃材で作られ、必要に応じて継ぎ足された空間は生き物ののように繋がり合う。そしてガーデンはその場の植物達にスペースを与えながら、自生するハーブや野菜、果樹や摘み草がお互いに関係しながら世界を作っている。時折鶏達が横切り、葉っぱの陰にはたまごが産み落とされていたり。池にはブッダとカエルの卵とオタマジャクシの大群。ついでに庭に面した家の壁には海岸の石を使って作ったエンジェルまで。まさにクレイグのワンダーランド!
その豊かな今の姿からは信じがたいのだけれど、最初はここもまた砂地にゴースの群生という土地だったそうだ。ドーナツ型にゴースの群生をくりぬき、風よけにしながら最初のガーデンの土壌作りをしたそう。
そこからここまでの道のりについては説明を聞く時間が足りず、カランガーデン同様全く想像できないのだけれど、あまり計画を立てず、スペースを作る、ということが大切なようだ。自生する植物を大事にしながらそれぞれの関係性を観察すること。そして、怖がらずに実験してみること。
土に触れることにまだまだ感性が鈍い身としては砂地からここまでの道のりはただただ気が遠くなる。自然界との対話はまずは観察して、試して、観じてということなのかな。我が家の暴走するミント達と今一度お話ししてみよう。他の植物にもちゃんとスペースあげて頂戴と。なかなか手強いのだけど。
フィンドホーン、その大きな器の中で
今回の体験週間は一つの問いかけ「改めて、なぜフィンドホーンなのか?」ということを携えて来た。6回目のプログラムとなり、自分自身の変化も加わりながらもう一度原点に戻って見直してみたいと思った。
11年前に始めて体験週間を受けた時にここは「懐かしき家」だと強烈に感じ、以来、ここの場そのもの、土地、人々、在り方全てが私をいつも軌道修正をしてくれる。私自身、ここを訪れることで自分の中の棚卸しの時間となりいつも自分の本質というか本来の質につながることができるという実感がある。タマネギの皮がむける様に、つるんとした自分が現れてきて、なんせ自由になる。段々と、日常とフィンドホーンでの時間のギャップは無くなってきているものの、ここの自然、澄んだ空気の中で変わりゆく天気、そして何と言っても世界中から集まる多様だけどどこか似ている人たちと過ごす時間は掛けがえのないもの。
20代の頃からバックパッカーで地球のあちこちを旅しながら常に居心地のいい宿を探していた私にとって、ここは私が経験した「居心地のいい宿」の全てが揃っている。体験週間を経験してからアイリーンの本やドロシーの本を読み、ここの成立ちを知った。入り口はどうであれ「フィンドホーンの磁場」に引きつけられたあらゆる文化圏や宗教、そして世代の人たちがその多様性を超えて、一つの大きな器の中に入りながら、それぞれの魂の旅をする場。
「自分の内なる声に耳を傾け、そして愛そのものを行動する。」というシンプルな共通のプラクティスから織りなされる変容の旅は、決してなだらかなものでは無いのだけれども、その大きな器に信頼を委ねることで結果オーライとなっていく。もちろんこれは、私の体験で感じることでしかないけれど。
ただ、これまでお連れした体験週間の皆さんの中にも、同じような体験をする方が多々いらっしゃる。また、随分後になってから「大きな器」の存在と出逢う方も。クレイグのガーデンと同じく、スペースが与えられた時に自発的にそれは開花し、実るものなのかもしれない。一方で、まったく受け入れられない方もある。内なる声を聴くと言うのは、他者の声を軸に生きることを美徳とされる日本においては、なかなかチャレンジであることも事実。それは、それで「期待」とは違う、貴重な自己への気づきなのだと思う。正解はない。あるのは選択のみ。
Miracle is on process
53年前、アイリーン達がやって来た時、現在のパークはフィンドホーンのビーチ同様、ゴースの群生と砂という荒れ地だった。そこを農地にし庭にしていった過程は正に奇蹟だったと思う。その砂地に出来た大きな野菜達は衝撃的で誰もが、奇蹟を奇蹟として認められる現象だっただろう。つまり、わかりやすい。その特別感が。(たとえその理由についてはわからないとしても)以来、絶え間なくこの土地に堆肥やコンポストを入れ、手を掛け、愛を注いで来た結果、豊かに作物が実り、木々は生長し、花が咲き命の輝きを私たちに見せてくれる。
今、初めて訪れる人の目には、すでに豊かさに満ちたフィンドホーンの農園の循環が当たり前に起きているかのように思うかもしれない。しかし、近くに寄って、そして土を握りしめた時、今目にしているものはやはり奇蹟の結果であることを改めて認識することになる。握ってもぱらぱらと崩れ落ちるほどにその土壌は保水力も密度も無い。今でもまだ砂地であり、掘ればすぐに石が沢山まじった地層が出てくる。
ここに引きつけられる人たちの絶え間ない世話と愛が無ければきっとこの循環は途絶えてしまう。自然界がフィンドホーンに生きる人たちに分け与えた農地とコミュニティの土地はそこに生きる人たちの、自然界の循環に対するコミットメントが無ければ、自然界はまた自分たちの土地にしてしまうだろう。
朝露がきらきらと輝く朝、改めてここのガーデンの美しさを見た時に、この自然界と人との関わりに敬いの気持ちが湧いていた。光の中の光は意識しないとなかなか見えて来ないものだ。この多様性と折り重なって来た時間と循環、自然界の摂理と神聖さに呼応した人間性が創り上げる暮らしの場。絶え間ない「実験」とそれに対する「楽観」。そして、未来にオープンであること。予め定められた完璧さに向かうのではなく、有機的な繋がりの中で成長しつづけていく在り方。これら全ての末端に現れる奇蹟。改めて意識的に眺めてみると芋掘りのごとく出てくる実り。何度も通う内に見えにくくなってきていたことがまた輝き出した。
Yesを求めて – Peace is possible!
今、身近な日常の中でも、そして世界でも目や耳を覆いたくなることが多々在る。それらとどう向き合うかは正直はっきりした答えをもたない。ただ、否定と批判をベースにした行動ではもう、私たちは消耗していってしまうだろう。それにもはや、一つ一つ向き合って解決できる程の問題の質と量ではないからだ。エネルギーの法則として、Noを携えていくということは、その対象に注目し、結果そこに栄養を与え続けることになる。認識はしてもそこにエネルギーを注ぐことを私はここしばらく手放した。
希望を持って生きることは誰にとっても大切なこと。であるならば何が求めていく方向であり、「YES」なのか。そこに焦点を定めてエネルギーを注いで創造していくことが平和への一番の早道なのではないかと思う。その一つの現実的なモデルがフィンドホーンのこの50年余りの実践であり、その核は一人一人の内なる変容に尽きる。自分を置き去りにして、外に答えを求めるのではなく、まず自分自身の内に向かい、今ここにどうあるのか、またどんな呼吸をしているのか、探求し、聴くこと。そしてオープンに分ち合い、互いに創造すること。
その先にこれまで外側のパワーに依ってきた生き方から、自分自身のパワーへの信頼を礎に生きる在り方への道が続くと思う。体験週間はその入り口。「自分」というワンダーランドへの旅への誘い。少なくとも、私のフィンドホーンへの招待状はこういうこと。私のこの招待状を見つけて受けとってくださる方々がある間はこのお役目も続けてゆきたいと思う。私に与えられたこれまでの「内なる旅の時間」というギフトを分ち合える時間でもあるから。
体験週間は月曜日が始まると時間の流れが速くなる。今回もまた、ここの日常のサイクルに乗りながら、金曜日を無事迎えた。途中、一人一人の変容のプロセスを経ながら迎えた金曜日はやはり、先週の金曜日のディナーとは全く違ったエネルギーに満ちたテーブルを囲むこととなった。さなぎから孵った蝶の様に、晴れやかに軽やかに、笑い声も高らかに。
食後はダイニングがそのままダンスフロアーとなり、他の人たちも交じってこの一週間をリズムに乗って踊りまくって終えた。祝福とJOYのエンジェルも一緒に。人生の中のかけがえの無い時間を一人一人が自分に捧げられること、その価値は計り知れない。そのお裾分けを頂きながら私もまた来年にむけて心を整えてゆこう。