昨年の秋から南砂町のカルチャーセンターでフラメンコを伝え始めて半年が経ち、ようやくその広いスタジオや一歩前に立ってフラメンコを伝えるということに慣れてきた。長年続けて来られている生徒さんを引き継ぐクラスと全くフラメンコに初めて触れる方のための入門クラスと2クラス。
一時間という限られた時間で、生徒さん達が何か一つでも持ち帰るものを提供できるか、あるいはつかの間日常生活を離れて、カラダを動かすことに集中し、リフレッシュできるか、模索しながらの半年でした。今もそれは続くのだけれども、少しずつ自分が何をこのフラメンコを通して伝えたいのかが姿を表し始めてきた。
フラメンコは恐ろしく奥深い。なぜなら、人間そのものの奥深さを歌い、その感情そのものになり、フラメンコを踊る、歌う、弾く者たちのカタルシスを観る人達へ分ち合うものだから。時にそれは、神様との対決にもなり、むき出しの存在が最後には立ち現れ、その愛に包まれるものである。
こんな境地はどこにあるのか、でもそれを観たことはあって、そこに向かいたいけど、いつまでも彼方にある。
それが私の感ずるフラメンコの世界。
この世界をどう噛み砕いて、楽しく、伝えるのか。。。これはきっとフラメンコを指導する方々みなさんが模索することなのではないかなと思う。
とはいえ、私自身カルチャー出身。
その初心を思い出すこと。あの時は、ただ言われるままにカラダを動かすことが新鮮だったなと。
オフィスワークや家事で使うカラダの領域はとても限られていることに踊る様になって初めて気がついた。そして、いつの間にかその限られたカラダの領域で固まってしまっていることも。
カルチャークラスの入門クラスではまずはここから。
カラダをほぐして繋げて呼吸入れて。そしてリズムを入れていく。
外側の筋肉を鍛えるのではなく、コアを鍛えてしなやかなカラダになっていくこと。今流行のレジリエンスをカラダで実感できるように。
時にそれは「フラメンコ」という領域から出ることになるかもしれないけれど、とても大切なこと。
カラダの自由さを求める一方で、フラメンコ的に大切な軸は、そこに「意志」を通すということ。
それがフラメンコのリズムの環を生み出していくということ。
フラメンコのリズムは循環。その循環の中で曲趣によってアクセントが変わってくる。そのアクセントが「意志」であり「軸」
自由を求めるとき、その軸があることでより自由に内側を感じられる。小さな入り口から、最終的にはそんな領域に向かえるように時間を重ねていきたいもの。
コトバにするは易し、行うは難し。でも、やればやっただけ応えてくれるのも事実。
そして、それは日々生きることに直結していく。
お伝えしながら、私自身もなぞる道。
半年過ぎての覚え書き。