瞑想が日常となって
一年を振り返る時期となり、改めて今年の私の大きな変容、その動力となったのは2月末から始めた毎日の瞑想だと改めて思う。
実践を始めて、約9カ月が経ち、ある意味それ以前の自分は大げさではなく、もう他人のような気がしてくる。
いま、この内側にある確かな平安に涙が出るくらいありがたいと感じる日々。
私が実践しているのは「原初音瞑想」。
内分泌系の医者であるディーパック・チョプラ博士が提唱し、一人一人がこの世に誕生する直前に天体で聞こえていた「音」をマントラとして心の中で呼吸と共に唱えながら瞑想をする方法。
キーワードは「ひたすらラク〜に」座ること。あまり難しく考えず、そっと、そのマントラに寄り添いながら内側の静けさの中に入っていく。時間は30分。一日二回、朝食前と夕食前に行うのが理想的。私の場合は夕方に移動していたり活動の真っ最中でなかなか30分座る時間は得られないのだけれど、例え1分でも、すっと静けさに戻る時間を持つようにしている。
瞑想を始めたきっかけは「深い怒り」
何かにつけて、どうしても生育環境に戻るのだけれど、私が育った家庭環境には、常に活火山の如く、マグマが底にふつふつと湧いていた。
そのマグマは時に、生きる活力や、何かを創り上げる莫大な動力になることもあれば、お互いをめった打ちにするような力になる時もあり、私がこの瞑想に出逢った頃は、後者の力と向き合っていた頃。
一度築き上げた自己信頼や、世界を「これでいい」と捉えた感覚が打ち砕かれ、不確かさと一緒に生きている状態であり、その不確かさや不安を一体どうしたら手放せるのかと日々黙想を重ねていた時。一方、16年勤めた企業を退職し、もう一度、自分の生き方を思うままに生きてみよう時でもあり、そして、長年のご縁が結実して結婚もした時だった。
新しい物語を始めたいという想いと、同時にまた破壊的なことが繰り返されるかもしれない、という虚無感が合わさった複雑な心境の中を生きながら暗中模索していた。
私自身の社会的な活動の中心が精神世界と深く関わることであり、というか、こうした生育環境だったからこそ、小さい頃から「心の世界」をじっと見て来たわけで、日々自分自身に向き合いながら生きてきた。
そうして重ねられた時間の中で、改めてまたその破壊的なエネルギーの中で「起きていること」をじっと静かに観察していく中で、ある時、感覚的にマグマの力は良いも悪いも無い、ということに気づき始めた。だから、私自身の軸を太くしていくことをただただやっていこうと腑に落ちた。その時、この瞑想へと行き着いたのだった。
瞑想がもたらしたもの
〜ぶくぶくと湧き上がる至福感〜
思えば、フィンドホーンの出発点もここにあり。
創設者達の実践は、ひたすら「内なる声に耳を傾ける」ということであり、その為のプラクティスはやはり、自分の内側の静けさに声を傾けるということ。ようやく、基本の「基」にたどり着いたということだ。
幸い、主人も精神世界での学びを深めることには前向きで、瞑想を日課としていくことに前向きだった。
朝の始まりを「静けさの共有」で始められることは大変ありがたいなと思う。
以前、すでに書いたように、瞑想を初めて直に自分の内側が落ち着いていくのを感じていた。
瞑想を始めて二週間程度経ったある朝、突然お腹の底の方からブクブクと、何かが湧き上がり、それが身体を通り抜けた。
「わ〜〜〜!なんだこれ!? なんだか〜〜楽しい〜〜!!」
笑いが止らない!
ただただヘラヘラ笑う自分がまた可笑しくなったりして。
しばらく、なんだかわからない至福感に浸かっていた。
これが、いわゆる「Bliss~至福感」ってものだったのかなと今、思う。
何かが抜けていったような、そんな感覚を体感した。
それは、実際、何かはわからないままだけれど、その「歓び体験」が、私にとっての「瞑想」を確固たるものにした。以後、同じことは起きていないけれど、もしかしたら「歓び」の栓が開いて、至福のエネルギーが静かに私の中を巡りはじめたのかもしれない。
シンクロニシティが人生の流れをつくる
原初音瞑想の実践を重ねている方の体験談には圧倒的に「シンクロニシティ」が増えてくるというものが多く、私もそれは激しく同感。
「交通系シンクロ」と呼ぶ、日々の移動の中で起きる小さなことから、人生の流れに通じる大きなことまで、人生が自分のコントロールなどには及ばない所で動いているような出来事や出会い、体験が増えた。
それまで、人生を動かそうとして前のめりにやってきただけに、シンクロニシティに気づいて、起きて来ることに寄り添っていく、ということが、とっても省エネで自然な流れを生きているという感覚を得ている。忙しくなったとしても、どこかで静かに人生の流れを見つめているような感覚。これは今までに体験したことが無い感覚だった。
キリキリとあれこれ思考を働かせて計画を練り、その通りに動かそうと思っても、それが世界のニーズに合わない限り、空回りする。
私に与えられたこの身体、様々な状況や条件、これまでの体験が、世界のニーズと絡み合っていった時に、シンクロニシティが起き、とても楽に進んでいく。
まだまだ、コントロールを手放せている訳ではないけれど、やってみるだけやってみて動かないものは動かず、必要なことは起きる、ということがわかってくるにつけ、無駄な悩み事は無くなってくる。
ストレスも当然減ってくる。願いが適わないことに対して悩まなくなることは、心にスペースを生む。
そして悩む時間が減る程に、閃きが増えてくる。
これが新たなシンクロニシティを招く。
物事が納得感と共に流れていく時、悩み事は小さな自分への固執に過ぎないと気づく。
瞑想の中で、自分の中にある、確かな安らぎを得られる場所に日々繋がることは、小さな自分にしがみつく必要はないという信頼を自分に伝えることでもあるのだろう。
日々の瞑想は自分への贈り物
私はこれまで、踊ることや歩くことといいた動的瞑想をいろんな形で実践して来た。すでに書いたように、座る瞑想は苦手で、やってみるものの、どうしてもウズウズと動き出してしまうのがオチ、というのが常だった。
50歳という人生の節目を迎え、私の状態も変容して来ているようで、繰り返しになるが、瞑想で得られる30分間の安らぎはこれまで以上に深く、そして確かな感覚を伴っている。
日課となっていることは自分でも驚きで、でもそれが何より今のわたしに必要なことだという証拠だろう。自分ひとりで座るのも良し、家族や仲間と共に座るのも良し。今となっては、私にとって自分に還る大切な時間。
ともすれば、ずーーーっと頭で色んなことを考えている日常。瞑想が与えてくれる空白の時間は、この人生の後半において最大の自分へのギフトだなあと思う。
「幸せの青い鳥」は自分の中の静けさに。